KIRARI MACHINOHITO

キラリ・まちの人

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桂田 瑰山(かつらだ かいざん)さん

 今回は東近江市垣見町(旧能登川町)にお住まいの、書道家、桂田瑰山さんをご紹介します。皆さんは漢字やかなの事を、どのくらい知っていますか?今使われている漢字は唐時代に原型が出来たそうですが、それ以前から漢字は日本に伝わっていました。その後、日本で漢字から生まれた文字は、音に漢字をあてはめた万葉がな、男性が漢文訓読のために漢字の一部をとったカタカナ、漢字を崩した草書体からできたひらがながあります。カタカナひらがなは同時進行のように作られましたが、使用頻度については、その時代の流行や好みで使われたようです。

 

 さて桂田瑰山さんですが、ともかく字を書く事がお好きだそうです。子供の頃はいつも、暇があれば、教科書やノートの余白に字を書いておられたそうです。小学生から習字を習われ、数々の賞をもらわれたそうですが、自分の字がどうしても好きになれなかったそうです。大学の文学部で更に書道を学ばれ、クラブ活動も勿論、書道と書道一筋です。何とこの書道部は、全在籍学生数の10%が所属しているというから、とにかく凄いんです。ある日、桂田さんが書いていると、背後から石橋犀水先生(日本書道教育学会)が「君、それでいいよ」と誉めて下さったそうですよ。

 

 書道とはおおまかに教育書道と芸術書道に分かれるのですが、前者は例えればパソコンの筆記体のようなもので、後者は新しい崩し方等を創っていくものだと言われています。桂田さんは芸術書道を目指したいと考えられていたため、クラブ活動での書道に違和感を感じられていたそうです。その後、ご自分の作風を求めて何人かの先生に師事され、毎日書道展に初出品された第34回展(1982年)、そして第35回展(1983年)と漢字部門にて入選を果たされました。大学卒業後は2年程フリーターとして、書道展では毎日書道展・創玄展・日書美展・謙慎展、美術展では院展・二科展等のアルバイトをされ、特に毎日書道展では刻字、近代詩文書、少字数、前衛書と様々な部署を経験されました。今は分業になっていますが、元々、絵・字・印・詩、全てをたしなむ人が文人と言われたのですよ。桂田さんは「どんなものでもいいから、日々、本物・良い物を見ることで、真実・真贋を見極める力をつけられたこの時期が、自分が一番成長したかも知れない」と振り返られます。そして、読売書展評議員・幹事、謙慎書道会展理事、日本の書展委嘱作家、書象展審査会員、滋賀書作家協会会員等の役職を歴任されました。しかし、昨年それらの全てを退会されました。物まねから入って、形を真似する。その後は吸収しながら、形を捨てていくという変遷の時期だと感じ、「師事するのはここまで。これからは親離れをして、自分の形をつくる」と決意されたからなんだそうです。

 

 自分の形をつくる基礎作りのために、日々、臨書に取組まれます。臨書とは、歴史・故事・造形を学び、自分の技術を磨くためのトレーニングの様なもの。更に、題材にする禅語や古典という、意味深い言葉も勉強しなければなりませんから、書道を学ぶことは広く深い教養が必要です。また、指導者の力量が問われる書道教育も、書道の普及と自分磨きのトレーニングを兼ねてなさっています。「教えることは難しいんです。その人に合わせた手本を書いて与えなければ、上手くなりませんからね。だから長所を見つけ、それを伸ばす指導を心掛けています」。そして更に「早く上手くなるには、師匠の書く姿を見る事が大切なんです。学ぼう、教わろうとする姿勢が一番の上達法ですから」と桂田さん。

 

 書道を愛する桂田さんは「書道は、どう感じるかの評価だけではなく、読めれば尚良い訳ですが、読もうとすると芸術性を感じにくくし、価値が認められない」こぼされます。いつの日かはピカソの絵画の様に、感性だけで評価される芸術書道が生まれて欲しいですね。

 

 納得できる作品はなかなか出来ないと厳しい桂田さんですが、33才頃に書かれた作品『一歩高一歩』の一点だけは気に入っておられます。書道家には字を上手に書く技術を持っている人はたくさん居られるそうですが、新しさが作品に無いそうです。桂田さんはそれをあえて不易流行(変わらないことと新しいこと)の精神で、色々な新しいものに取組んでおられます。「これで良いと思ったら成長が止まります。『一歩高一歩』の作品を越えるまで、挑戦し続けますよ」と話されます。

 

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